2021.7.25みことばの光
先週の祈祷会は『イザヤ書を味わう』悔い改めの祈り(六四章p.238~)を学びました。六四章は六三章7節からの祈りの続きです。六三章8節以下の祈りのテーマが繰り返し現れています。
1、神の救いのみわざの偉大さ。六四章1?4節→六三章8?9、11?14節
2、イスラエルの罪と神の怒り。六四章5?7節→六三章10、18?19節
3、神が父であられることの確認。六四章8節→六三章16節
4、神への叫びと願い。六四章9?12節→六三章15、17節
1、神の救いのみわざの偉大さ。
この部分では出エジプト記十九章の十戒を賜る時にシナイ山に降りて来られた神様の御威光が覚えられています。主が天を裂いて来られるならどれほど力強い救いがなされるか。しかしそれは天が裂かれるという通常ありえないことが起きなければ実現しないことでもあります。イエス・キリストが天から来られた神の御子であったということは、驚くべき奇跡。しかし神様はイザヤの祈りに応えられたということを私たちは知っているのです。
2、イザヤは奇跡を期待しながら、現実神の怒りとさばきを見ています。その理由はイスラエルの罪。5?7節でイザヤは「私たち」と言って自分を民のうちに含ませています。他者を批判して終わるのではなく、それは「私たち」の罪と、民の罪を自分の罪として、共に神の前に頭を垂れるものとなりました。罪は救いようのない状況。そして主も御顔を隠しておられます。
3、しかし8節の「しかし」が祈りの大転換をもたらします。その理由は主が「父」であること、私たちが「粘土」であり主が「陶器師」であることでした。神が神の民に創造主として命を与え、救いの約束を与えた父なる神であるから、罪のどん底からもこの神様にあわれみを期待して祈ることができるのです。どうしようもない罪を覚えながら、9節「いつまでも咎を覚えていないでください」と祈る、それは神の選び、神の約束の言葉に基づく信仰の祈りでした。
4、イザヤは絶望的な状況だからこそ、12節「主よ」と祈ったのです。