2021.7.18みことばの光


 先週の祈祷会は『イザヤ書を味わう』シオンを救う熱心(六三章p.233~)を学びました。この章の1?6節はヒゼキヤ時代の預言三四章に対応していて神の民の敵エドムへの復讐が実行されることを告げています。それは六〇ー六二章が三五章に対応して終末における神の民シオンの救いと栄光を述べていることと同様の組になっています。エドムは神の民を迫害する敵の代表です。

 神の民の敵になされる「復讐」は人間的な憎しみのこもったものではなく、正義が保持されるための神のさばきです。ローマ人への手紙12:19に「自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』」と書いてある通りです。神に信頼する者は私的な報復を願いません。神様が必ず正しく裁かれるからです。

 「復讐の日」は同時に「贖いの年」になります。そこで大切なことは(1)神が人として現れていること(2)神のみが働き、協力者はいないこと(3)シオンの救いと敵の滅亡は、一つの事件の両面であること、でした。私たちはこの預言の成就、キリストが地上に現れて私たちの贖いを成し遂げてくださったことを知っていますが、イザヤは暗黒の時代に自らも生涯を終えようという時、神ご自身が人として現れ、神の民の救いを成し遂げ、神の民の敵を滅ぼしてくださることを預言のうちに確信して励ましを受けたのです。今日の私たちはさらにキリストの再臨と救いの完成を待ち望む時の中を生かされていますが、暗闇の時代の中で失望してしまうのではなく、キリストが再び来られる時には完全な神様の救いが成就することを覚えてたゆまず歩むものとさせていただきたいと思います。この時代の中で私たちの務めは「とりなしの祈り」です。

 現実神の民が祝福を失っているように見える状況の中で、イザヤは7節から主の豊かな恵みを思い起こします。神の民は救いのみわざの直後に神に逆らう歴史を繰り返しましたが神様は民を約束の地に導かれました。このようにあわれみ深い神様なので、イザヤは15節から信頼して「ご覧ください。」と祈ることができるのです。現実は神様の「熱心と力あるわざは、どこにあるのでしょう。」という悲惨な状況でした。しかし「あなたは私たちの父、とこしえから私たちの贖い主」。イザヤは神の民のために主の贖いを信じて祈り続けたのです。