2021.6.20みことばの光


 先週の祈祷会は「イザヤ書を味わう」。イザヤ書六〇章より「シオンの栄光と富」について学びました。59章では神の民が祝福を失っている理由として罪の問題が告発されていましたが、とりなす者がいない(59:16)ゆえに主ご自身が御腕で救いをもたらすことを決められます。

 主はやがてシオンに贖い主として来られ(59:20)、その時には新しい契約が結ばれ、主の霊と主のことばがとこしえに神の民から離れないものとされる(59:21)との予告を受けて六〇章1節で二つの言葉による命令が命じられます。「起きよ」「輝け」。現実には闇が地をおおっています。しかし必ず主が太陽のように地平線から昇り、すべてを照らす時が来るから、神の民は暗いうちから信仰によって輝く理由があるのです。主の光が輝く時には「国々」が主の光のうちを歩み、「王たち」が主の輝きに照らされて歩みます。神の民だけでないのです。この世の支配者たちも、主の輝きを必要とするものになるのです。

 4節にも二つの言葉による命令が命じられています。「目を上げて」「見渡せ」。未来の光景を見よとの命令です。約束を信じる信仰によって輝くためです。子孫たちが帰って来る光景の幻が与えられました。帰って来るのはイスラエルだけでありません。6、7節に登場するミディアン、エファ、シェバ、ケダル、ネバヨテはいずれもアラブの人々を指す言葉です。イスラエルとイスラムの和解の日が聖書には予告されています。10節では外国人がエルサレムの城壁再建を行います。史上行われたことのない光景は終末を預言しています。17節その時には「平和」が管理者となり「正義」が監督者となる。確かにそのような光景はいまだ実現せず、しかし必ず平和の時が来る、神様がその時を来させると約束してくださったのでした。

 19節以降は天地創造以前の世界にまで遡る回復の予告です。太陽、月に変わって主ご自身が私たちの永遠の光となります。同じ光景が黙示録21:23,22:5にも記されています。

 22節では終わりの日をもたらすお方が「わたし主。」であることが強調されています。「速やかに」するとは速さのことでなく、時至り「確実に」そのことをするという意味です。