2021.11.21みことばの光


 先週の祈祷会は『詩篇の愉しみ』。第3篇を学びました。最初の表題付き詩篇です。ダビデ王朝はソロモンに引き継がれるまで、ダビデの女性関係に起因する子供たちの争いが続きました。アブサロムは国内でも人気が高く、遂にダビデは王座を捨てて都落ちします。1、2節はダビデの家庭的個人的霊的問題が、イスラエル全土の問題となったことを物語っています。ダビデはそのことを正直に主に祈ったのでした。
 セラという言葉も初めて登場します。これは間投詞の一種。(感嘆詞、感動詞とも呼ばれる。話し手が、驚き、喜び、悲しみなどの感情を、直接表現する時に用いる単語。日本語では「あっ」「やれやれ」など自然に口をついて出る言語音的性格を持つものが多い。かけ声や呼びかけ、挨拶などもこれにあたる。)詩篇の第1巻から第3巻に多く見られ全部で71回、他ハバクク書3章に3回登場する。有力説は、詩篇に付けられた音楽の「間奏か伴奏変更の合図」。なので、私たちが詩篇を読む時にはセラの前後で祈りの調子がどのように変化しているかということを読み味わうことが有益。BGMを変化させることを考えてもよい。
 3、4節は信仰の告白。「私の栄光」とは主に仕える栄誉、主から与えられる輝き。敵が増大し、ダビデは神様の祝福を失ったという噂が広まる中で、彼は主への信頼を捨てなかった。むしろそれを強く握り締めた。それはシオンの山から御言葉を発せられる主の約束の言葉に基づくものだった。第二サムエル記7章11節以下、ダビデの死後、世継ぎによって王国が確立することは主の約束だった。ダビデは祈りの中で約束の御言葉を何度も反芻したのではないか。セラで調子が変わる。3節の「あなたこそ」と5節の「私は」が対になっている。主が盾となってくださるので、私は平安のうちに眠りにつき、また目覚めるということ。6節「幾万の民」は1節の敵の増加がもはや恐れの原因とならなくなったことの告白。祈りの中でダビデは恐れを克服した。7節では敵を打ち砕く勝利が願われている。王であるダビデは霊の平安だけでなく、問題解決の義務があった。今日私たちは王なるイエスに倣う小王ゆえに同じ勝利の務めを帯びている。(黙示録22:5)しかしダビデは謙遜に8節「救いは主にあり」と言う。そして私の祝福でなく、私の民の祝福でもなく「あなたの民の祝福」を祈って、祈りを閉じる。