2021.4.25みことばの光
先週はイザヤ書56章を学びました。最初に聖書批評学による見解が述べられています。イザヤ書56章以降を第三イザヤ、捕囚以後の著作とする考えです。安息日の厳守、異邦人と宦官の登場、神殿と帰還者への言及があるので、第二神殿完成以後でなければならないというわけですが、保守的な聖書理解ではそう解釈する必然性はないと考えます。
1節「公正を守り、正義を行え。」は、主の救いを来させるためにそうするのではなく、主が来ることになっているから命じられていると鍋谷師は言います。確かに聖書には「主の救いを来させるために」とは書かれておらず「わたしの救いが来るのは近いからだ。」と書いてあります。信仰義認を再発見したルター、ルーテル教会の先生らしい注意深い読みです。「正義を行う」のは、それによって神様に認められるためではないと旧約聖書の中に書かれてあるということです。
「わたしの救い」「わたしの義」がへブル語の並行法で書かれていて「救い」と「義」が同義語とされていることも重要です。神様は正しい神様なので、罪人を救われるのです。罪人を救われることで、神様の正しさが現される。この実現はローマ人への手紙3:21-22に記されています。「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」
このことから「安息日」は人間の善行ではなく「礼拝」であり「しるし」という言葉が出てきます。私たちは礼拝をして神を喜ばせるのではありません。神様が救ってくださったから、感謝する私たちは神を礼拝するのです。礼拝は私たちが信じていることの証しなのです。それはモーセの時代から続く神の民の変わらない伝統である。しかし外国人や宦官が主の契約の恵みに入れられることは終末的な救いの実現でしょう。イエス・キリストのみわざのあと、ペンテコステ、聖霊降臨の後、信仰による救いはすべての人に普遍的なものとなりました。
9節以後にはマナセ王時代の腐敗した社会が描かれています。「口のきけない犬、ほえることもできない。」とは悪を告発すべき立場にある人がその務めを果たさない姿が風刺されています。