2021.10.24みことばの光
先週の祈祷会から野田秀著『詩篇の愉しみ』を学び始めました。「愉しみ」とは単なる楽しさのことではなく、心の深いところから湧き上がる尽きない喜びを意味しています。野田師は二〇二〇年に瀕死の状態から主に助けられる経験をしました。その後読んだ詩篇のことばは「ああ、本当にそのとおりだ」とうなずく喜びとなり、これが野田師にとっての詩篇の愉しみでした。]
聖書を読む時には各書物の背景、目的などの予備知識である緒論を学ぶものですが、詩篇はある意味緒論の学びを最も必要としない書物と言えます。詩篇各篇がそれぞれ完成した一編の祈りの詩だからです。そのままに味わう、啓示の声に耳を傾けることが重要です。野田師は「アポイントメント」無しに面会することにたとえています。詩篇は、誰が、どこから読んでも一定の理解を得ることができる親しさがある。半数はダビデの詩。本来はヘブル人の讃美歌集。そこに作者の人生と信仰が反映しており、読む者に共感を与えます。
評論家小林秀雄は「聖書は問題の人間について書かれているのではなく、人間の問題について書かれているのだ」と言いました。人間ならば誰もが持っている問題に光を当てているということです。罪と悩みがあり、救いを求める祈りと叫びがある。そして、それに応えてくださる神がおられることを詩篇は確信させてくれるのです。
宗教改革者カルヴァンの言葉も引用しましょう。「私はこの書物を魂のあらゆる部分の解剖図と呼ぶのを常として来た。なぜならば、あたかも鏡に写すようにその中に描写されていない人間の情念は、ひとつも存在しないからである。?そこにおいて聖霊はあらゆる苦悩、悲哀、恐れ、疑い、望み、慰め、惑い、そればかりか、人間の魂を常に揺り動かす気持ちの乱れを生々と描き出している。?預言者たちは神に語りかけつつ、心情のすべてを打ち明け、我々に自分自身を反省するように呼びかけ導く。それは我々の内に溢れている悪徳が、隠れたままで残ることのないためである。隠れたものが顕わにされるとき、我々の心が偽善という悪しき汚れから全く清められ、白日のもとへ引き出されるというのは、特別に類まれな効果である。」