2021.6.13みことばの光


 先週の祈祷会は「イザヤ書を味わう」。イザヤ書五九章より「神と人とを隔てるもの」について学びました。私たちは私たちの住む世界の現状の悲惨さに直面する時に、神様に対して失望し不平不満をつぶやいてしまうことがあります。しかし問題は神様ではありません。人間の罪が神との仕切りとなって祝福を失わせているのです。2節「あなたがたの咎が」神との仕切りとなり、「あなたがたの罪が」御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

 3節「手は血で」「指は咎で」汚れている。「唇は」偽りを語り、「舌は」不正を告げる。人を傷つけ、殺人を犯していながら、私は知らないとうそぶく言葉。4節は司法の堕落、神政国家であったユダが「空しいことに頼」る、偶像礼拝、偶像信仰を行う時、善悪の正しい基準はないがしろにされ、邪悪で不正の溢れる国家になってしまったのでした。

 しかし2節3節で「あなたがたの咎」「あなたがたの罪」を批判したイザヤは、それらを9節から13節で「私たち」の問題と捉え直しています。イザヤはこの世界の罪の問題を他人事としませんでした。信仰者がこれを「私たち」の問題と捉え直す時、罪を認める正直な告白に導かれます。12節「まことに、私たちの背きは私たちとともにあり、私たちは自分の咎をよく知っている。」正直な認罪は罪の清めと赦し、解決につながるのです。(ヨハネ第一1章5から10節)

 16節、主が「唖然とされた」のは、人の堕落を予知できなかったからではありません。全てをご存知の神様が「唖然とされた」と表現する他ないほど人間の堕落はひどかったということです。現代に至るまで途方もない堕落を繰り返す人間に、私たちは絶望する必要がないのです。それは歴史に繰り返されることでした。しかし主は心痛められて、一方的に正義を現されるのです。 17節18節に復讐、報い、報復という言葉が出て来ますが、これは神様の行われる正しい裁きのことです。信仰者は私的な報復を神様に委ねますが、泣き寝入りではなく神様の正しい裁きを待ち望むものなのです。主はイザヤの見た幻のように、贖い主イエス・キリストを地上にお送りくださり、信じる者が新しい契約を神様と結んで神と共に生きることができるようにしてくださったのでした。