2021.11.14みことばの光
先週の祈祷会は『聖書に聴く』マタイの福音書25章に傾聴しました。イエス様はすでに十字架に架かるためにエルサレム入りし、これから起こることを予告します。24章は、エルサレムの滅亡、終末の予兆、再臨についての一つのたとえ、25章は二つのたとえと最後の審判です。
24章に記されている終末の前兆をまとめて記しておきましょう。@偽キリストの出現。A戦争BききんC地震D教会に対する迫害E教会内での背教と堕落F全世界への福音宣教。そして15節-28節で神殿破壊が詳述されます。これはこの後ユダヤ戦争、紀元70年のエルサレム陥落で成就したと言われています。しかし15節に?読者はよく理解せよ?という但し書きあり、理解に注意を要する所です。なぜなら預言者ダニエルの預言(15節)は繰り返し成就しているからです。ダニエル自身は紀元前6世紀の人物。彼が紀元前167年のセレウコス朝シリアのアンティオコス・エピファネスによるエルサレム破壊を予告し、同じような異邦人による聖都破壊が紀元70年にも繰り返され、そして未来において繰り返されるということだからです。
29-31節に主の再臨が記されていますが、重要なポイントは「そうした苦難の日々の後、ただちに」(29節)ということです。ゆえに「目を覚ましていなさい」(42節)「次のことは知っておきなさい」(43節)「用心していなさい」(44節)という助言がなされ、三つのたとえに続きます。
25章、花婿を出迎える十人の娘のたとえでは、ともしびと共に油を持っているかどうかが問題となります。ともしびは教会生活、信仰生活のこと。油はその原動力となる聖霊です。今は聖霊を求めるだけで自由にいただくことができる時ですが、花婿を出迎える時にこの備えがないと、それは人から分けてもらうことはできません。自分で神に求め、自分の分を備えておかなければならないのです。タラントのたとえは一タラントであっても6千日分の賃金。一日一万円と数えて6千万円です。私たちは神様からいただいたものが少ないなどと言うことは許されないのです。最後の審判の時に重要なこととして愛のわざが記されていますが、これは御国を受け継ぐ者とされる条件、根拠、功徳ではありません。証拠であって、神の愛を受けた者は、自分で自覚せずに「小さい者」に愛のわざをあらわす者となるのです。あわれみを受けたことを自覚する者は自ずからあわれみをあらわす者となるのです。