2021.5.30みことばの光
去る26日新潟聖書学院の「祈りの日」では先日祈祷会で学んだイザヤ書58章より説教しました。主の好まれる断食ということで祈りがテーマとなっていたからです。
イザヤ書は40章以降、ヒゼキヤ王の死後悪王マナセの時代に与えられた主からの幻と言われています。ユダの国において正しい者の血が流され、エルサレムの隅々に満ちるほどであった(列王記第二21:16)迫害の時代に、表立って宣教のわざを行うことは危険を伴うことだったでしょう。しかし主は老預言者イザヤに「精一杯大声で叫べ。わたしの民に、罪を告げよ。」と激励します。腐っても鯛ならぬ腐っても神の国。神の民に対してはどこまでも神の御前に誠実に歩むことが求められたのです。
彼らの問題は、主を求め、断食の祈りをささげていながら(2,3節)、断食の日に自分の好むことをしている、自己中心でした。熱心に祈りをささげていても、主に喜ばれない偽善があるのです。悪を隠すためではなく、自分では正しいと思っているが、それが自己中心の思いでしかない偽善でした。4節「見よ、あなたがたが断食をするのは、争いとけんかのためであり、不当に拳で殴るためだ。」ユダの民は熱心に神に祈っていたのですが、それは自分の願いがかない勝利するためであって、自分が正しくないと決めつけている人に勝つためでした。5節、いかに頭を垂れようと、粗布をまとい、灰の中に座っても、主のみこころがなることでなく、自分の願いがかなうことを求めるような祈りに、主は答えてくださらないのです。主の好む断食(6節)とは、正義を行うことでした。飢えた者にパンを与え、家のない人を家に入れ、服のない人に服を与え、肉親への扶養の義務を果たすことでした。
そのときに回復は速やかに起こる(8節)。歴代師第二の33章で悪王マナセは悔い改めています。彼の悪はその後の完全な王国滅亡を招く大罪であったのに、主は悔い改めたマナセに幾つかの業績を与えられました。帰国が許され、城壁建築、高官の配置、偶像礼拝の排除を成し遂げたのです。主に立ち返るなら、主は祈りを聞かれ、その人をもちいてくださる。主が好まれることは何か。それを主に聴いて行う祈りをささげつつ歩みましょう。