2021.7.11みことばの光


 先週の祈祷会は『イザヤ書を味わう』シオンのための誓い(六二章p.230~)を学びました。この章は六〇章に述べられている「起きよ。輝け。」という状況の前に、シオンがまだ見捨てられているのではないかと疑いのある状況に対して語られたメッセージです。イザヤは終末の希望の幻を与えられ、見て、語っていましたが、現実社会は悪王マナセの治める暗黒時代でしたから、現実を受け止めた上で、希望に生きるメッセージを語る必要がありました。

 1節の「わたし」は主とも預言者とも解釈される幅があります。主の民が輝くまで、主ご自身が黙っておられないのか、私たちが選ばれた者として黙っていてはならないのか。いずれにせよいつかは、主の民は主によって輝かされ、世界の光となる時が来るということです。

 イザヤはその光景を幻のうちに見ました。新しい主の民が「新しい名で呼ばれ」(2節)、「主の手にある輝かしい冠となり」(3節)、「花婿が花嫁を喜ぶように」(5節)、主が主の民を喜んで輝かせてくださる日が来る、希望は確かだ、しかし現実は暗い。ならば神の民のすべきことは何か。「休んではならない。」(6節)「主を休ませてはならない。」(7節)つまり「主よ、働いて、あなたの民を救ってください、輝かせてください」と祈り続けることが主の民のすべきことでした。試練の続く時に私たちは失望してはならないのです。「主よ、休まずに働いてください」と熱心に祈り続ける者となりましょう。

 しかしその祈りが聞かれるのは祈り手の熱心さによるのではありません。8節、主ご自身の誓いのゆえにシオンは「見捨てられることのない都」(12節)と呼ばれる日を迎えるのでした。その通りに主は、時至ってキリストをお送りくださり御民の救いを成し遂げてくださったのです。キリストが地上に来られた時、それは信じる者たちが真の神の光を知り、輝くものとなる時の到来を意味していました。キリストの弟子たちは自らも光となり、いただいた光を世界に届ける証し人となったのです。今日の私たちは主からいただいた光を輝かせるものとなっているでしょうか。そうでないなら「主よ、輝かせてください」と祈り、主が与えてくださる光を反射して輝くものとならせていただきましょう。